祖父と父の病気




2007年4月号リレーエッセイ

私が中学生のころ、今から30年も前のことだが、祖父が脳卒中で倒れた。冬の寒い夕方だったと覚えている。
そのころは能登島に橋は無く、医者もいなかった。倒れた直後には布団の中で、まだ手は動く、 話もできると強がっていたが、少しずつ悪化する様子に翌朝の定期船を待つ猶予はないとの判断がされた。
そのころには村共同体としての支援が普通に行われていたようで、村の青年団が漁船を手配し、 七尾市の病院に搬送してくれた。
しかし、一刻を争う病人にとって、冬の海は荒く、寒く、到着までに時間もかかった。結果として、私が大きな影響を受け、 大好きだった祖父は右半身不随となり、歩行も会話も失い、寝たきりとなった。
しかし亡くなるまでの6年間は妻や嫁の暖かい介護のもと、三世代が住む大家族の家長としての尊厳を保つ事ができた。
7年前、橋が二本もかかった能登島に住んでいた父は、七尾の病院で腹部大動脈瘤を人工血管に置換する手術と、 心臓のバイパス手術を同時に受けた。たまたま優秀な外科医が勤務していたため、病院始まって以来の大手術は成功し、 元気に退院した。
島では広い舗装道路が整備され、金沢とつながる能登海浜道路が整備された現在、 金沢近郊に住む私は、気が向けば何時でも父に会いにいける状況にある。 80歳の父もなんとなく安心なのか、息子と一緒に住みたいとは言わない。 胸部や脳に予断を許さない動脈瘤はあるものの、今まで元気に田んぼを作り、一人暮らしを続けている。
しかし担当の外科医が大阪で開業したため、定期検査などは七尾の病院から内灘の大病院で受けることになり、 今のところ自分で車を運転し通っている。父は祖父のように寝たきりでないが、 もしもの場合はわがままを聞いてくれる妻もいなく、生まれた土地を離れて、狭い私の家に住み、 迷惑をかけることが心配なようだ。
能登島を取り巻く橋・道路などは徐々に整備され、30年前とは隔世の感がある。 能登を取り巻く医療インフラはどうかと言えば、時代と共に右肩上がりに整備されたとは言いがたい。 最高レベルの橋は能登に作れても、都会並みの医療はいつでも能登に確保できるようにはなっていないようだ。
医療は橋とは違い、人間である医者に付属する流動的なもので、政治的手法で簡単に整備・固定化できないもののようだ。 30年前はともかく医者に治療して欲しかったが、 今はより高度な医療を受けたいという意識に島の多くの人たちも変わったようだ。 能登地区では無理なら、病人を高い医療技術を持つ都会の病院に搬送してでもかまわないという意識である。
しかし、病人自身や家族は、かつての家族や共同体にあったような支援を受けることができるだろうか疑問である。 老人が厄介な病気を抱えたと自覚したら、都会の大病院のそばに住んで、 非常時に備えるしかないのだろうか。
しかしそのようなことが可能な労働環境や経済的余裕が誰にでもあるだろうか。 今はなくても、祖父や父や同じような病気になると予測される私自身の未来において、 どこに住んでいても安心な社会保障制度を日本国に期待できるだろうか。










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