我が師匠 木次英吾




木次歯科医院に就職することは、運命だったのです。

学部4年生(6年生)の後半のころ・・、大学の教室は人材探しになる頃でもある。
私は、早いうちに、大学に残るなら、第一補綴と周囲に公言していた。 あんなにお世話になった予防歯科教室になぜ残らないのか?友達は訝しく思っていたかもしれない。 実は、補綴科はカモフラージュ。どこに行くか公言しておけば、他の教室から変なお誘いもないし、 気が楽、学生生活が煩わしくないのである。
ただし・・条件の『大学に残るなら・・』が味噌で、最初から大学には、 多分残らないつもりであった。
誰にも嘘はついていないという自分への正義をかろうじて 保つ方便のようなものともいえるが・・・。
実は、学Wのポリクリのときに、予防歯科教室は、 授業の一環として外部講師をお招きし、講義や学生とディスカスをさせることがあった。
そのときの外来講師として、木次先生が招かれ、面談する機会があった。 それも、どう言う訳か、全6年生対象でなく、 私の属していた班を狙い撃ちするように期日が設定されていたようだった。 誰の差し金かは言うまでもない。

木次先生の第一印象は田舎の先生。物静か。朴訥。はにかみ屋。 見た目は気にしない。しかし、お話をお聞きすると・・頭が切れることは即理解できた。
予防歯科の先輩・滝口先生からも田村先生からも、 『東京医科歯科大学卒で、境助教授の親友として、 またフッ化物の臨床応用研究者として』木次先生を強く押され、 歯科医院に就職を勧められていた。
大学に残っても収入は低く、両親に仕送りもできないだろから、 給料の多い開業医勤務は私には魅力的でもあった。 また木次先生の下では、フッ素による虫歯予防に関する ・フィールドワーク研究ができることも大きな要因であった。
既に私の心は決まっていたのである。
卒業した。国家試験は終えたが、合否の発表は6月の予定 (そんなもの当然合格するに決まっている)。
そんな状態の3月末に就職した。長野県南佐久郡佐久町に向かった。
新潟から直江津?直江津から長野・上田を経由して小諸。 小諸から小海線で、岩村田、臼田、佐久町へ。
降りた駅の名前は今はもう忘れた。しかし、少ずつ鄙びていく・・ ・・電車からの景色に笑ってしまった。大変な田舎だなぁ・・・。 (数日後から、同じように佐久に出向いてきた京子は、 小さな頃に住んでいた福島の田舎そっくりで、懐かしく感じていたと語っていたっけ・・。 この頃は、まだ正式に結婚はしていなかった。) 私自身は、それでも生まれ故郷よりは、ずーと都会だから、全く気にもならなかった。 期待のほうが、大きかったのである。

最初の日は、木次先生宅に泊まったと記憶している。
飲んでも飲んでも減らないお茶と、野沢菜には閉口した。
数日後、京子と小さな歓迎会に招かれた。
余興の一つに歌を歌わされた・・。 今でも覚えている。 豊田勇造の『さあ、もういっぺん 』に収められている『大文字』である。

1)ライトがてらす 男のひたいは
汗と涙と あざけりで汚れ
あと20分のフィニッシュまでに
一発きめねば  ならない定め
男の背中で大の字に山が燃える
男の手の中の 蜂鳥よブンブン飛べ
さあ もういっぺん さあ もういっぺん 火の消える前に
さあ もういっぺん さあ もういっぺん 火の消える前に
2)期待外された ただ見の客は
 うつむき加減に 縛り組の縄をなう
 砂を浴びせる 男たちに混じって
手を振る女に さつきん花を見た
REF
3)石で打たれた ことがあるなら
砂の代わりに 未来を投げてくれとは
口には出すまい 舞台の上からは 
自分で選んだ 道を進め
REF

私は、でっかい声で、歌いました。
この頃から、PTOをわきまえない詩を歌う自分に、 既に気がついてはいましたが・・・、そんなこと関係ない!とやっちまうのです。

3月の木次歯科医院での仕事は、3日間の見学のみ!
最初に宣言したら、その通り実行する師匠でした。 患者さんには一切触らせませんでした。私のやることを見ていなさいというのです。
綺麗な、手際のいい仕事を堪能させていただきました。 へーベルの使い方、持ち方、タービンの扱い方などなど・・。
医科歯科の外科にいたので、小手術や抜歯などは綺麗なものでした。
3月の給料は3日間で、30万円。私が超貧乏なことを察してくださったのでしょう・・。
その後、数年間、毎月毎月延々・・・・と月給は上がり続けました。今では信じられませんネ。
勤務の当初はユニット4台だったのですが、翌年には、 増築して6台に増やしたと記憶しています。
新潟大学卒のトップバッターの私は、それなりに気に入られたのか、 翌年から研修生を受け入れるようになりました。
その翌年には、私が面接して、後輩を就職させました。その次の年も一人採用しました。
歯科医師4人体制です。院長の下ではあるものの、2年目3年目4年目5年目の私は研究のお手伝いをしたり、 新しい研究を始めたり、冊子を作ったりで結構充実していました。
新潟大学にも時々研究生として訪問することもでき、 また、毎月、木次先生の同級生の外科の教授もアルバイトとはいえ、 私に直接マンツーマンで指導を施してくださる機会もあり、 環境的に恵まれて、このままズーット就職していようかとも思い始めていました。
もちろん公衆衛生学会や中部地方部会ですが口腔外科学会にも研究発表や、 症例報告をさせていただきました。懐かしい思い出です。
木次先生は、私には大変眼をかけてくださりました。いろいろなことを教えてくださりました。 人間飾る必要なんて必要ないことも教わりました。感謝しても感謝し切れません。

歯科における私の一番の師匠は、木次英吾なのです!!











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