アメリカの医療現場では




医療市場の勝者と敗者
−アメリカでは今何が起こっているか一
アメリカ医師会およびニュージャージー州医師会会員
  ニュージャージー州立大学医学部客員准教授
          横浜市立大学医学部 生理学第一教授 石川 義弘 
  私の大学医学部は倒産しました。  果たして現在の日本にこんな台詞をいう医師はどのくらいいるだろうか。 あるいは医学部教員で,倒産を経験したことのある者は何人いるだろうか。 願わくば皆無であって欲しいし、それがだめならその数が増えずにいてほしい。 後者に関しては残念ながら皆無ではない。筆者がその本人であるからである。
筆者は(現在のところ)医学部倒産を経験した唯一の日本の教授かもしれない。 今後の国立大学医学部を含めた独立法人化の進展具合によって、 わが国でも大学倒産がでてくるかもしれない。

 筆者がかつて勤務していたアリゲーニ大学医学部は、1998年に倒産した。 同大学は、年間収入2000億円、 病院従業員数3万2千人、年間入院患者数13万人を誇るペンシルバニア州最大の医療機関であった。 アメリカの医療市場開放政策や公的医療費削減のあおりを受けて、 ある日突然倒産してしまったのである。
倒産に関する詳細な分析は、先にメディカルトリビューン誌に連載させていただいたので、 そちらを参照していただきたい(拙著「アリゲーニ大学はなぜ倒産したのか」)。
アリゲーニ大学といっても、ピンとこない名前であろうが、 実体は150年の歴史を誇るペンシルバニア医科大学とハーネマン大学による連合医科大学であり、 全米最新にして最大規模を誇る大学医学部であった。
医療機関としての経営規模がどの程度であったかは、 年間収入が同州東部の名門ペンシルバニア大学の1.5倍、 患者数は州西部に臓器移植の雄を誇るピッツバーグ大学の2倍と聞けばどのくらいか想像できるだろう。 もっとわかりやすくいうと、 日本の医学部病院が10数個くらい集まった大きさであるといえばよかろうか。

 しかし、このようなことは決して珍しいことではない。 ハーバード大学やコロンビア大学に留学経験のある医師は多数いらっしゃると思う。 筆者はその両者で教鞭をとったことがあるが、両者とも病院経営は順調でない. コロンビア大学にいたっては、同じくニューヨークにあるコーネル大学と医学部病院が合併して しまったくらいである。両者ともに経営危機は何度も理事会の深刻な討論事項となっていた。 アメリカのアイビー校同士の合併など、我が国で例えるなら旧帝大の大阪大学と 京都大学の医学部が合併したようなものだろうか。
ハーバード大学ではマサチューセッツ総合病院とブリガム病院が合併してしまったし (両者はボストンきっての名門病院であり、ながらくライバルとして対立していた)、 同じくハーバードの教育基幹病院であるベスイスラエル病院とデーコネス病院も合併したが、 後者は現在相当な経営危機に落ち入っているという。 さらにはスタンフォード大学とカリフォルニア州立大学サンフランシスコ校 が合併してしまったこともあるし、これにいたっては私立大学と州立大学の合併である。 我が国に例えるなら、順天堂大学医学部と東京医科歯科大学とが合併したようなものである。
こうしてみると現在のアメリカでは、一般企業でみられるような合併吸収、 あるいは倒産すら決して希有の存在ではないのである。 一言でいえば、これらはすべて市場原理に乗っ取って起こっていることであり、 逆にいえば市場原理からすればごく当たり前の現象なのである。

 筆者は幸いなことに(?)たまたまアリゲーニという全米最大規模の医学部倒産の現場を 目にすることができたが、一般病院(大学関連病院も含めて)の米国での倒産は数知れないから、 実は自分がかつて勤めていた(留学していた)病院が知らないうちに倒産ある いは吸収合併されてしまったという日本人医師は調べていけば多いと思う。
しかしながら、医学部倒産を目の辺りにすると、倒産という事象がどのようなインパクトを、 医師のみならず看護師などのコメディカルや事務職員、 そしてなによりも患者に与えるかを考えざるを得ない。
近年わが国でも盛んにいわれている医療への市場原理の導入には、 じつは光と影の両面がある。
わが国では光の面だけがマスコミに強調され、ともすれば影の面は無視されている、 あるいは一向に論議の対象とならない傾向が強い。 筆者は市場原理の導入には反対ではないが、光と影を十分に理解した上で導入すべきであり、 やみくもに市場至上主義を唱えるものではない。
完全社会主義的な現在の医療制度にも問題はあるが、 アメリカ型の資本主義型医療にはもっと問題がある。 なによりも現場を担う医師がその点を十分に理解せねばならないと思うが、 それを知る機会すらきわめて乏しいのが現状である。
そこで小生がお話させていただくこととなったのが今回である。

HMO型管理保険医療の導入
 HMOと聞いてもピンとくる医師はそれほど多くないかもしれないが、 何のことはない米国での医療保険会社のことである。 わが国でいうなら会社形態の健康保険組合のようなものである。
最近ではわが国の保険組合にもHMO型の経営機能を取り入れようという論議がなされているが、 もしHMOによる医療がどんなものか知りたかったら、 「ジョンQ」という映画をみていただきたいし、 ぜひとも臨床内科医会推薦映画としていただきたいくらいである。 アメリカでヒットを飛ばし、わが国でも11月ころ公開されるというから、 拙文が印刷されるころには近くの映画館でやっていることと思う。
 ストリーはいたって単純である。先天性心疾患を持った息子に心臓移植治療が必要になった。 しかし自分の加入している医療保険(HMO)では認められないと知った父親が、 怒って病院の救急センターをのっとり、病院側に息子を移植待機名簿の筆頭に載せろと脅迫する。 そこには息子の受け持ちの心臓外科医もいて人質となる。 最後は同じHLAのドナーが交通事故で死亡して心臓が提供されるというハッピーエンドだが、 よくよく映画を観察すると、現在のアメリカ医療の問題点が浮き彫りにされていることに気がつく。 黒人の父親はまじめな中小企業の従業員だが、 不景気のあおりをうけて仕事は削減されているし収入も少ない。 したがって満足な(なんでもカバーしてくれるような)掛金の高い医療保険には入っていない。 したがって通常の医療は受けられても、心移植のような高額医療は当然医療保険会社 (HMO)から拒否されるのだが、本人は拒否されるまでそれを知らないでいる。
 息子はいままでの検診で異常を指摘されたことはないのにどうして突然心臓病なのだと父親が怒る。 先天性心疾患(確か中隔欠損症だったと記憶するが)で、 重度の心不全をおこすまで検診でみつからないのは、普通はないだろうが(少なくともわが国では)、 HMOで最低補償の保険では、診療報酬も極端に低いから、 どんな事抜きの診察をされたのかわからない)。 聴診器すら満足に当てられなかったのかもしれないし、 少々の雑音が聞こえても精査にまわされなかったのかもしれない。
映画でもこの点を指摘して登場人物がHMOに怒りを込めて絶叫する場面がある。

市場原理下では医療は商品である
 つまり、市場原理の基では、医療は品質に値札のついた「商品」なのである。
したがって、医療はその他もろもろ市場で売られているテレビや車と同じように扱われる。 自動車をとってみれば、お金持ちはベンツに乗って、貧乏人は軽自動車に乗る。 道悪く自動車事故にあったら、ベンツはエアバッグもついてるし車体も頑丈だけど、 軽自動車は危険である。古い中古の軽自動車ならエアバッグすらついていないかもしれない。 だから軽自動車に乗っている人は死亡率が高い。 だからといって軽自動車のメーカーを訴える人はいないだろう。 安全がほしければベンツに乗ればいい。みんな軽自動車が危険なのをわかっているからであり、 軽自動車に乗るのはお金がないからである。
 医療が商品となったら、同じ理屈となる。良質で安全な医療がほしければ、 お金をたくさん払わなければならない。貧乏ならば、ベンツの医療はあきらて、 軽自動車の医療を受けることとなる。
後者は当然、悪質で危険かもしれない。それでもないよりはマシだろう、 軽自動車とはいっても歩くよりは早いし、雨にぬれずに済んで便利だからである。 病気になってまったく医者にかかれないよりはいいのかもしれない。
ところが、わが国ではここで大きな問題に突き当たる。 医療は公平であるべきというのがわが国の基本概念だからである。
お金持ちでも貧乏人でも、高齢者でも生活保護者でも、社長でも平社員でも、 受けられる医療は平等という考えである。
つまり結果の平等である。
日本の医療保険に、社長なら心臓移植を受けられて、 平社員だと受けられないという制度ははたして導入できるだろうか。 社長はベンツに乗って平社員は軽自動車に乗ることを受け入れることはできても、 命に関する差別(あるいは区別)を、どこまで日本人は受け入れることができるだろうか。
車に関することなら、中古車でも歩くよりはマシと納得してもらえるだろう。 医療に関して、医者に診てもらえないよりはマシと納得してもらえるだろうか。

どうしてアメリカではHMOが主流となってしまったのか
 それではそれほどアメリカでも嫌われているHMOが、 どうして医療の主流を占めるようになったのか。アメリカ人はそれほど自虐的なのだろうか。
答えは否である。
アメリカでは医療費高騰を抑えるために市場原理に医療をまかせたのであり、 その結果の必然がHMOであっただけの話である。
アメリカでもわずか20年前までは、わが国と同じような診療報酬制度、 つまり出来高払い制度をとっていた。 ところが、70年代からの医科大学増設ブームによる医師数増加と、 医療技術の進歩が医療費の沸騰を招いていった。
医療においては需要が供給を生むだけでなく、供給が需要を作り出すのである。
 平たくいえば、医者が一人増えればそれだけで医療費は増えていく勘定である。 医者に対する診療報酬を制限できない旧来の医療保険会社は、 病巣として医療保険費(毎月の掛け金)を値上げすることで、医療費の高騰をまかなった。 しかし、掛け金が毎年20〜30%のインフレ上昇を続けることによって、 従業員の保険費用の大半を負担する企業の福利厚生費用の負担急増となって、 企業の経営を圧迫することとなったのである。
80年代の初頭はわが国の自動車メーカーがアメリカへの輸出を増加させていたころである。 今日の惨たんたる日産や三菱の状況からはとても想像できないが、 倒産危機にあえぐ米国自動車メーカー幹部が(先日三菱自動車を吸収した旧クライスラー社である) 「わが社の経営難の理由は日本車の市場参入と医療保険の高騰である」と断言していた。
事実、当時の車一台作るのに、 車の材料である鉄鋼代よりも社員の福利厚生費用のほうが大きかったというから、 かなり深刻な状態だったはずである。
つまり、医療費の高騰が、単に医療界だけの問題から一般企業の経営を脅かすような、 社会全体の問題になってしまったのである。 ここら辺の状況は現在のわが国の状況を連想させそうだが、 社員の福利厚生費のために倒産しそうになった会社というのは日本ではまだ聞いたことがない。

HMOは医療費をどうやって抑制したか
 医療費を削減するのは、実はそれほどむずかしいことではない。
患者が医者にかかるからお金がかかるのであって、 患者が医者にかかるのをむずかしくすれば医療費は少なくて済む。 したがって患者から自由受診の機会を奪って、 あらかじめ定められた医者にしかかかれないようにすればいいのである。
具体的にいえば、「かかりつけ医」を各人に割り当ててしまい、 かかりつけ医の指示によってのみ専門医の受診やら入院手術ができるようにすればいいのである。 したがって、眼科に行くのにもまずはかかりつけ医の許可が必要になるし、 入院治療の可否もかかりつけ医の判断をあおがなければならない。
また、どんな医者でもかかりつけ医になれるのではなく、 非専門医の内科医(家庭医)など少数の医者にだけこの機能を負わせるのである。
結果はどうなるか。患者にとってどのような受診であれ (かかりつけ医にせよ専門医受診にせよ)、恐ろしく待ち時間がかかるようになる。 たぶんそれだけで大半の患者は医者にかかることをあきらめるかもしれない。
 医療費高騰のもうひとつの原因は、医者が患者を治療するからである。
だから、医者にかってに治療をさせなければいい、 つまり治療方針の決定権を医者から奪えばよい。医療保険組合が治療内容を決定すればいいのである。 もっといえば、保険のランクに応じて治療の内容に制限を加えていけばいいのであり、 「ジョンQ」の映画そのものである。
ある患者の保険では十分な医療ができないとするなら、 それをしてくれるような病院に送ってしまえばいいのである。
生活保護者の医療は、公的注入のある慈善病院に負担させればいいのであり、 お金持ちの患者は高度先端治療ができる私立病院にかかるようになる。
後者の典型例がクリーブランドやらメイヨークリニックである。 その病院の患者にどれだけお金持ちがいるかを知ろうと思ったら、 病院のインフォメーションセンターか付属の長期滞在型ホテルに行ってみればよい。
アラビア語をしゃべるスタッフが十分に配置されていたら、まず間違いない。 アラブの王族が治療に来るような病院である。 数年前にヨルダンの国王が白血病でクリーブランドクリニックで亡くなられた。 御付きの召使やら家族やら事務官などなどすべてがクリーブランドに付き添っただろうし、 費用に糸目をつけずに高度先端医療を駆使したことと思う。 いったいどれだけの治療費をはらったのかは想像もつかない。
かたや大都市に住む少数民族や生活保護者は、サービスの悪い慈善病院にいって 医学生や研修医主体の治療を受ければよい。

 我々日本人にはHMOのやり方はかなり乱暴に聞こえるが、 アメリカではこの方式を入れて以来、政府主導でどれだけあがいても抑えることのできなかった 医療費がはじめて減少に転じたのである。
それではこの制度でアメリカ国民は幸せになっただろうか? 実情はそうではなさそうである。 幸せになったのは福利厚生費用の減った企業と (つまりは会社の株主)と先端医療を優先して受けられるようになった富裕層であり、 資本主義の原則にのっとった結果となった。
では憤懣やるかたない貧困層はどうしたかというと、 十分な治療が受けられないうっぷんを医療訴訟で解消しようとする。
金がないからきちんとした治療が受けられないなら、金をどこかから取ってくればいいし、 医療訴訟はアメリカ社会の富の再分配メカニズムなのである。

 一般庶民にしても、医療を不便にしたHMOに対しては怒りをかくせない。 昨年ついにHMO自体を訴えてもいいという法案が出た。
それでは医者はどうしたかというと、訴訟におびえながらも資本主義の原理に従って 治療を行わざるを得なかった。せめてHMOに対して団体交渉権を確立しようとした。 あるいは医療業界への新規参入者を制限しようとした、つまり医者の数を制限した。
平たくいえば外国人医師に医師免許が取れないようにして、 すこしでも競争を抑えようとしたのである。

究極のHMO制度
 実は上記の医療保険制度は、けっこう生ぬるい。
いくら治療の制限をしようが、患者が病気になれば医療費がかかるのである。
ではこれを防ぐ手段はないのだろうか。答えはきわめて簡単である。患者が病気になっても、 余計な費用を払わなければいいのである。
毎月の保険の掛金だけで、病院側が治療費用をまかなうようにしてしまえばいいのであり、 万一治療費用にアシがでてしまったら病院負担にすればいい。 こうすれば患者がどれだけ病気になっても、医療保険会社や企業のふところが痛むことはない。
キャビテーションあるいは人頭制度と呼ばれ、 カリフォルニアを中心として普及し始めている究極のHMO制度である。
 平たくいえば、本来保険会社が負うべきリスクを病院側に振ってしまうやり方である。
一般保険会社の儲けと同じで、患者が病気にならなければ病院の儲けは大きいが、 病人が多数出ると損をしてしまう。
つまり、患者が病気にかかると病院が損をする仕組みで、 出来高払いの正反対の制度である。こうすると病気の予防が最大のポイントとなる。

日本の医療費は高いのか
 実際わが国の医療の発展に関する議論は著しく公平と均衡を欠いている。
日本人の健康と長寿を実現し、膨大な数の人々を病気と不衛生からすくった医療の発展については、 医療事故や医療費高騰などの害悪についてのみが最大もらさずマスコミで流されている。 しかしながら、戦後50年間にどれだけ伝染病が減り、 手術などの治療法が進歩し、疾患生存率(あるいは治療成功率)が上昇し、 日本人の平均寿命が延び、乳児死亡率が低下したのかが、 マスコミで取り上げられることははるかに少ない。
 そしてなによりも、すべての国民に医療の機会を与えることとなったわが 国の健康保険制度に対する賞賛が与えられることも少ないし、 アメリカに比べればはるかに安い報酬で働く医師にいたっては責められることはあっても 讃えられる事は決してないのである。
 日本の医療費が高騰しているという。すでに年間医療費は30兆円を超え、 とどまるところを知らない。
老齢人口の増加率は世界一であるから、老人医療費は世界一の速度で増え続ける。
マスコミの論調では、ここで医療費を抑制しなければ大変なことになってしまうから、 何をおいても医療費抑制が必要という。
しかし、ここで考えていただきたい。わが国の医療費は本当に高いのか。 諸外国と比べても本当に高いのか。あるいは国内のほかの費用、たとえば外食代、 あるいは他の産業界の費用と比較して高いのだろうか。
実は日本の医療費はOECD加盟国中、最低ランクである。
わが国よりかろうじて低いのは英国であるが、あまりにも医療のお粗末さに、 ブレア首相によるリバイバルプランが出されたのは記憶に新しいと思う。
大してコストの変わらないわが国の医療はそこまでひどくないはないだろう。
世界の医療の最先端を行くのはアメリカである。 しかし、医療費も最先端であり、対GDP比ではわが国の2倍である。 それでいて平均寿命は日本より短いし、乳児死亡率にいたってははるかに高い。 人種的な差を考えに入れても、とても効率的な医療とはいえないだろう。
少なくとも一般庶民にとっては。中国や韓国の平均寿命を比べても、 いかにわが国が高い水準を保っているのかがわかる。

 マスコミは医療費は削減すべきだというが、外食費を削れだの、 パチンコ店を減らして浮いた費用を医療費に回せなどということは聞いたことがない。
むしろ論調はパチンコはストレス解消で不況の憂さ晴らしに役に立つという。 デパ地下のケーキ売り場では、空前のパティシュブームという。 実は日本の外食産業もギャンブル産業も、医療費とおなじくらいの30兆円産業なのである。
わが国の医療費が高いというなら、一体なんと比較して高いというのだろうか。
外食をやめれば弁当にすればいいし、ストレスがたまるのならジョギングすればいい。 安くつくだけでなく、はるかに健康にいい。
甘いケーキは肥満の元である。弁当だけにすればカロリー計算も野菜の摂取だって簡単だ。 親子でジョギングをはじめれば、親子の断絶の解消にも役立つだろう。

 しかし病気にかかって治療を制限して何のいいことがあるだろうか。 老人が増えれば病気も増えるのは当たり前のことであり、 子供が増えると学校教育費が増えるのと同じことなのである。
かつてベビーブーム時代にも学校教育費用が増加して、 学校建設やら教員数増加などで国家財政や家計をそれなりに圧迫していったはずである。 しかし、マスコミはこれをどれだけ糾弾しただろうか。 教員による教育ミスをどれだけ暴き、市場原理を教育に取り入れて教育コストを下げろと キャンぺ−ンをはっただろうか。
子供にはお金をかけてもいいが、老人にお金をかけるのは無駄だというのだろうか。

終わりに
 先にも述べたが、筆者は市場原理の導入に反対というわけでは決してない。
むしろほとんどが非公開で、各病院の治療実績も公表されないまま、 あるいは病院に対する評価も何もないまま患者が医療機関を選ばなくてはならない 今までの状態には違和感を持っている。
しかしその反面、やみくもに米国の制度だからとの偏見で、 アメリカ型市場原理を単純に導入することにも違和感が強い。
市場原理をわが国に導入したらどうなるかというシュミレーションを欠いた状態で の導入は混乱を引き起こすだけだと思われる。
 そしてなによりも、公平な比較を欠いた状態でわが国の医療費が高いと 断定するような現在のマスコミの論調には反論を唱えたい。

 医学は科学であって、日本でもアメリカでも同じである。
しかし、医療となるとそれは社会の文化風習の一部であって、 わが国には独自のものがあり、医療はわが国の社会の仕組みの一部分なのである。
したがって医療だけをとりあげてアメリカ型にするのには到底無理がある。
医療保険の仕組みから医者患者の関係まで、すべては日本の社会に根ざしたものであり、 これを根本から変えようと思えば、日本の社会の仕組みそのものを変えなければならないのである。 わが国の社会の仕組みは例えてみれば箱根の寄木細工のようなものである。 一つ一つの細工がお互いに複雑に寄せ合わされて支えあっている。 だからその中の一本でも変えようとするのは大変である。 一本抜き取ればその影響が他にも及ばざるを得ないからである。 したがって,周りの寄木を変えることなく、医療という寄木を一本変えることはきわめてむずかしい。
医療だけやろうと思うと、単なるつじつま合わせに終わってしまうのである。 今までの医療改革と呼ばれるものの大半がそうでなかっただろうか。 若干の制度疲弊が来ているとはいえ、 わが国の国民保険制度はそれでも諸外国からすればまだまだ健全だと思う。 しかし、今のままの制度でいいわけはなく、 より時代の要求に沿ったものに変えていかなくてはならない。
しかし、それには大なり小なりの痛みが伴う。 その痛みをおしてまで改革しようと思えば、 それはすべての医療人がその痛みの必要性をわかり合ってかつ分かち合う必要がある。
医療保険制度だけでなく、わが国の医療の全ての面に改革の波が押し寄せている。 これをどうやって切り抜けていくのかは、 結局医療現場に携わるすべての医療人の理解と努力とにかかっているのかもしれない。

第16回日臨内教育講演 平成14年9月 日臨内会誌  17巻4号
 










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